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みよ子のこと

みよ子と出会ったのは2010年の9月4日。
夜の道端だった。

妻とショッピングモールへ行った帰りに、ファミレスで夕飯を済ませ車に戻る途中、道路へ目を向けると妙に車が混んでいた。よく見ると道路にまだよちよち歩きの子猫がいる。「あ、子猫」と思っていると、横にいた妻が急いで猫に向かった。僕はオロオロと後を追うだけだった。

車の隙をついて子猫を拾う。一台の車から降りてきてくれた男性が、預かりましょうか?と声をかけてくれた。なぜか分からないけど僕たちはその申し入れを「いえ、大丈夫です。」と断った。

とりあえず車に戻り、周りに親猫がいないか探し回った。茂みや道路、目につくところを一通り見てみたが猫は見当たらない。車に戻ると子猫は助手席の足元にある隙間から、ボンネットの中へ入ってしまっていた。僕は生まれて初めてロードサービスに電話をした。

ロードサービスの人が来るまでの間に、これからどうすればいいのかを調べた。僕たちは子猫のことを何も知らなかったから。何を食べさせればいいのか。弱っているのか。ちゃんと生きられるのか。そんなことを話したり、調べたりしているうちに子猫は自分から出てきた。子猫は本当に小さかった。

僕たちは帰路についた。家に着いた時は夜中。いつもの部屋に子猫がいるのは不思議な感覚だった。灯りの下で見る猫の顔は目ヤニなどでぐちゃぐちゃで、これまで頑張って生きてたのかなと思った。翌日連れて行った動物病院の先生には生後3ヶ月くらいだと言われた。

僕たちは動物と暮らせないアパートに住んでいたので、誰か引き取ってくれそうな人はいないかと友達に聞くことにした。子猫の行く先が見つかるくらいまでは一緒にいよう。と、思っていたはずなのに、数日子猫と過ごすうちに僕たちは子猫と離れられなくなっていた。僕たちは子猫と一緒に暮らすことにした。そして、子猫をみよ子と名付けた。

猫のことを何も知らない僕たちは、何が必要なのか、どうやって育てればいいのか、何を食べさせたらいいのか、とにかくなんでも聞いたり調べたりした。分からないことばかりで大変だったけど、みよ子との生活は、それまで感じたことのない幸福感を僕たちに与えてくれた。

みよ子とは色々な時間を一緒に過ごした。

みよ子と出会った翌年、2011年の3月には東日本大震災があった。当時、僕たちの住んでいた埼玉も大きく揺れ、これまで体験したことのない恐怖を感じた。地震の直後、電話も通じず妻とみよ子が心配だった僕は、当時勤めていた職場から車で帰った。信号機は停電で消えていて、ラジオからはルイ・アームストロングの「What a beautiful world」が流れていた。アパートに着くと、玄関の外ではみよ子を抱いた妻が待っていた。二人とも怯えていた。

僕の実家の愛知県まで高速道路を使って一緒に帰ったこともあった。留守番させるのも、ペットホテルに預けるのも可哀想で一緒に帰ることにした。車の音をずっと警戒していたみよ子は、僕の実家に着いた後も、知らない場所を怖がりずっと隠れていた。可哀想なことをしてしまったと後悔した。僕はずっと愚かだった。

みよ子は外で生まれ育った事もあって猫風邪を患っていて、免疫力が落ちると症状がでた。目の周りはずっと目ヤニやカサブタ。みよ子は繊細で、すぐにアレルギー症状がでた。花粉やハウスダストや柔軟剤などの化学物質で、鼻水を出し、くしゃみをしていた。他にもお尻から虫が出たこともあった。

みよ子を避妊する時はずっと悩んだ。必要だと分かってはいても、人間の勝手でみよ子の生殖機能を奪うことにどうしても納得ができなかった。みよ子との生活は、これまで感じたことのない不条理や理不尽に向き合うきっかけを沢山与えてくれた。

僕たちは何度も引っ越しをした。みよ子と出会った時に暮らしていたアパート以降はずっと、動物と暮らせる物件を選んで。環境を変えることは僕たちにはその都度、必要だったんだと思うが、みよ子にとっては大きなストレスだったんだろうと思う。

それでもみよ子は、いつも僕たちを笑わせて幸福にしてくれた。僕たちが喧嘩をすれば空気を和らげてくれた。ご飯が欲しい時はお皿の前に座って無言で待機。もらえない時には、お皿を台から落とす。それでも出ないとずっと大声で鳴き続けた。

みよ子のお尻の辺りを撫でると、どんどんお尻が上がって真顔でじっとこっちを見てきた。誰からも三毛柄と毛並みの綺麗さを褒められたし、お腹の毛がふわふわで、そこに顔を埋めるとなぜか蒸しパンみたいな匂いがして幸せだった。

みよ子の額の柄はセンター分けで、いつも真顔で、たまに人間みたいな表情で、少しクロロ・ルシルフルに似ていて、世界で一番可愛くて、とにかく本当に最高だった。

2022年の1月14日にみよ子は旅立った。

2020年の秋頃からあまり体調が良くなさそうで、それからずっと病院通いが続いていた。その頃にも主治医の先生から可能性があると聞いてはいたものの、2021年9月にCT検査で悪性リンパ腫と診断されるまで、僕はそれを信じないように、見ないようにしていたんだと思う。僕は後悔ばかりしている。

悪性リンパ腫には、抗がん剤治療がちゃんと効果が出ることが多いと先生に言ってもらい、治療を始めることにした。僕たちにはみよ子の意志を聞くことはできなかった。みよ子はずっと頑張っていた。治療だってずっと苦しかったんだと思う。そんな時でも、僕たちが気落ちした時にはすり寄ってきてくれた。みよ子はずっと優しかった。

みよ子が最後の時を迎える数日前から、ご飯をあまり食べられなくなり、その時が近いんだと考えざるを得なくなった。病院でも、家族にも友達にも太ってると言われてたみよ子は、凄く痩せてしまっていた。そんな時でも撫でればゴロゴロ喉を鳴らして僕たちを安心させようとしてくれた。

もう本当に最後かもしれない日、みよ子の近くで出来るだけ起きていようと思っていたのに耐えられず眠ってしまった。翌朝、ガタっという物音で目を覚ますと、ぐったりしていたみよ子が大きな声で2回鳴いた。妻は慌ててベッドから起きてきた。みよ子はそのまま僕たちが見守る中、息を引き取った。最後にお別れをしてくれたんだと僕たちは思っている。

11年一緒に過ごしたみよ子がいなくなって、もう半年が経った。みよ子のいない生活なんて想像もできなかったし、無理だと思っていたのに生活は続いていく。世界は考えもしないような最悪なことばかりが起こって、そういった物事にいちいち傷つきながらも、食べて、寝て、仕事をして、ただぼんやりと生きている感じがする。僕は後悔ばかりしている。

この喪失感を乗り越えられる気がしないし、乗り越える必要があるのかもよく分からない。猫と暮らすつもりなんてなかった僕たちは、偶然みよ子と出会って、一緒に暮らして、その時間は本当に本当に幸せだった。もしいつかまた、みよ子に会えるのなら、その日が待ち遠しい。

きっと僕はこれからもずっと、みよ子に会いたい。

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